速さ
                                        猪狩恭一郎 
                                    「この頃時の経つのが速いなあ」
と感じることが多い。 年齢と共にその思いは強くなってきたが、振り返ってみると、年齢のその時その時にいつもそんな気がしていたようである。若い人に尋ねても、案外共感が得られる感慨であろうか。
   「この頃の乗り物は速くなったなあ」
と感じるのは、それとは違って、万人の感想ではなさそうである。物心がついた時にはすでに新幹線が走っていたという人にとっては、新幹線は普通の速さであり、他の乗り物はむしろ遅いと感じるだろう。だからこの尺度は、個人的なものであるといえる。そして好みの問題でいえば、『速いのが好き』とだけは言えないようなところが面白い。
   「人の一生は重き荷を負うて行く旅の如し」と徳川家康が言っている。『重き荷を負うて』とは考えたくないが、人生と旅とを重ねあわせることはよくある。その違いは、旅は目的地が大切だが、人生はプロセスだ、ということであろうか。
 
 とは言っても、旅だってプロセスである途中の楽しみこそが本当の醍醐味だろう。
   旅には三つの型がある。一つは仕事上の旅。二つ目はひたすら目的無しにぼやっとする旅。三つ目は未知なものへの好奇心を満たす旅。   
   一つ目の旅つまり出張の車中では、折角の未知の世界を覗く機会を削りながら一途に資料に目を通している。これはもう旅ではなくて移動である。 二つ目が一番楽しそうだけれど、案外そうではない。いつのまにか外界への関心が頭をもたげてきて、三つ目の色合いを帯びてくる。三つ目は、移り行く情景が目にもからだにも切り取られ折りたたまれて、旅に途中の楽しみを与えてくれる。この三番目の旅を、実り多くしてくれるものの一つに、乗り物の速さがある。
 プロセスを楽しむ旅にとって、乗り物の速さはどのくらいが心地よいであろうか。遠くの山、近くの丘、海辺の岩や白波、四季それぞれの里山の花、山間の小駅に停車して訪れる一瞬の静寂を気付かせてくれる渓流の音。私は時速30キロくらいが好きだ。ゆっくりと移り行く風景が、周りの雰囲気と共に、目にも耳にも飛び込んでき
 
て、しかも右から左へはすぐに抜けてしまわない。一瞬の楽しみを胸に沈めてくれている。
   この速さはローカル線の鈍行列車の速度である。
 小学校の6年間は、時速四キロ。人生を徒歩で歩いていた時代だ。行事が盛りだくさんでもあった。二年生で大東亜戦争(第二次世界大戦)勃発、六年生で終戦の玉音放送を聞く。五年生で東京から父の故郷である福島の農村に疎開。少しは知っているはずの東北弁を無理にしゃべって笑われてしまう。イナゴを捕りに行けば、他の子供の半分も捕まえられない。炭焼き小屋から背負って下ろす炭俵の重さにへたりこむ。そんな事では立派な軍人に成れないぞといわれながら、算数と地理の本ばかり読んでいた。目線は高くなく、押し寄せる外界の圧力に耐えていた。しかし今となっては、思い出は一番深い。
   中学と高校の六年間は、時速十二キロ。人生を自転車で走っていた時代だ。国家主義と民主主義、新円や生活苦。その他諸々の価値観の激変にも慣れた。親のことや、周りのことも少し見え始めて、自分が分ったような気になっていた頃。実際は教科書
 
に墨を塗り、貨物列車の連結器に乗って通学した時代から、高度成長期にかかるまでの、日本も自分も頑張っていた時代。
 浪人一年と大学の四年。がむしゃらに何かを追い求めていた。ようやく当時の国鉄も復興から隆盛に向かい、一分半おきにホームにすべり込む満員電車で通学しなが、友人との会話は貴重な財産となって身についた。各駅停車の普通列車に必死で乗り遅れまいとしていた時代。時速三十キロ。しかし満員で窓からの景色も外界もあまり見えていなかった。
   就職して結婚までの五年、仕事に没頭しながらも家庭と共にあった三十数年。その間列車の速度はどんどん速くなり、特急が復活して時速百キロに到達した。新幹線が開通するとついに時速二百キロの世界が見えるようになった。自分たちの生活も忙しくなって、仕事で転勤をしたり、子供が学
校へ行ったりするようになると、その都度少し速い列車に乗り換えて行き、目線も高くなった。電車の運転手になりたかった子供の頃の夢が、どこかで方向転換して高分子材料開発の仕事に変わっていたけれども、三つ子の魂は、いまだに鉄道少年の夢を持ち続けている。
 
 何度か速度の違う乗り物に乗り換えながら、その時その時を自分の能力に応じて走ってきた。 時速三十キロくらいで走って
いた学生時代。その時はだんだんと速くなってきて夢中で走る三十キロだった。ゆっくりと周囲を見つめる余裕はなく、今になって考える三十キロではなかった気もする。
   速さというのは、速すぎると、大事な所を見落としてしまいがちであり、遅すぎても大局がよく見えなくなる。
   リタイヤして、時速二百キロの新幹線『のぞみ』を下車した。見落として来たものをあらためて拾い上げ、それを供養しながら人生の質を高めたいと考えるようになっている。
 「この頃時の経つのが速いなあ」
の実感はやっぱりぬぐえないが。
   他方、一番好きな30キロの速さで、大好きな日本の四季を楽しんでいる。その楽しみを披露する楽しみもまた捨てがたい。

   「あ、地球儀の日本みたいだ」
向いの座席に座っている小学校一年くらいの女の子が農家の庭先を指差して、その母親らしい連れに話し掛けた。そこには唐辛

 
子が一本、秋の日を受けて真紅に実をつけていた。
 先程まで、曼珠沙華の赤い垣に囲まれて黄色に輝く田んぼを見慣れていたが、駅に近づいて、農家の庭先にも目が留まるようになった。時速三十キロの各駅停車の旅は、遅過ぎもせず速過ぎもせず、信濃の秋の車窓を心地よく彩って行く。
  ここは日本の真ん中、信州、何度訪れても、またいつ訪れても、何かほっとした日本人の営みのような景観に出合える。
  少し古くなったディーゼルカーのキハ四三が小駅に停車し、小学生数人が下車した。今は無人駅となった改札口は通らずに、桜の樹の間にまだ少しだけ残って揺れるコスモスを分けて道に下りていった。一瞬の静寂にふと顔を上げると、遠くの山並みが今燃えているであろうたたずまいをあらわにはせずに、田んぼを見守っているかのようである。近くの山はこれ以上の天然色はないといわんばかりに装っている。

       信州の一両電車刈田行く
 晩秋の田んぼは、刈られた跡に稲株が立ち並んで白くあるいは黒く乾いている。曼珠沙華が華やかだった辺りには、田んぼ道の

 
両側に稲架が一列に組まれていて、くすんだ黄色の襖のようだ。稲架の組み方は、太平洋側では一段組み、日本海側では縦に三〜四段に高く組み上げることが多いようだ。日照時間の関係で日光を有効に利用している為であろうか。信州でもこの辺り上田から松本平にかけては太平洋岸の流儀に倣っている。もっと雪の深い信州に行くと高い稲架が見られる。暖国では刈り跡が櫓(刈り跡の稲株に芽がでていること)になっているが、さすがここでは緑の芽も無く、烏が落ち穂を拾うのみである。かっては藁塚が所々に積まれ、もみを燃やす煙が立ち昇る風景があったが、今はない。
  農家の庭先にあった唐辛子は、門口にいくつかの実を残した柿の木と、干し柿のすだれとに変っている。
       干し柿に渋き昔のありにけり
  遠くのアルプスはその頂きを雪に預けている。
 信濃の長い冬は白一色になる。山側を走る篠ノ井線はかって時速十キロでスイッチバックを繰り返しながら登った事を忘れたかのように、新生の電車クモハ一一五が二両連結で雪煙を上げながら姨捨駅に滑り込む。三大車窓風景といわれるここからの眺
 
めは棚田が美しい。田植えの頃は、田毎
の月が見事だが、今は一面の雪化粧である。遥かに見下ろす先に流れる千曲川に冬日の輝きがキラッと反射し、踏み切りには藁沓を履いた子供たちの、紺絣の上着と臙脂色のズボンが雪の中で弾んでいる。稲藁
が生活に役立っているのも何となく嬉しい。
   信州の遅い春は一度にやってくる。東北の春は三春と言う地名もあるように、梅と桃と桜が一度に咲く。信州ではあんずも加わって、四春である。更埴の丘に立つとあんず畑の薄桃色にすっぽり包まれる。春の花々はみんなやさしい色をしている。 
  そのころ田んぼでは清澄な雪解け水が、掘り起こされた土に吸い込まれていく。雪に反射していた強い光は、少し緑を見せはじめた畦に区切られて、田んぼ毎にやわらかい光となっている。田んぼの水は、沢山の周りの山々を、空の青色の中に白く黒く映し出す。
  やがて夏になれば青田のすがすがしさに見とれながらの汽車旅となる。けれども、庭先では派手な色を誇示している夏の花々が次々と現れるようになって、やさしい春の花も、秋の唐辛子の可憐さも何処かへ行ってしまっている。日本のどこも同じ風景
 
になる。山の稜線の黒い鋭さだけが、ここはアルプスだぞと自己主張をしている。
   私のふるさとは信州ではない。しかし、十代の後半に、梓川畔から穂高の稜線を見上げていらい、ここもふるさとになった。鈍行列車の車窓に映り行く彩りは、厳しさと抒情を、そっと私に差し伸べてくれる。
 
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